雑文日本古代史の個人史料
ノート
四国の津波に関する郷土資料
中国経済の変調と石油暴落、原発再稼働などの史料/2015年

 雑文ノート/日本古代史年表

約8万年前、クロマニヨン現生人類は出アフリカして中東でネアンデルタール人と混血し
     ヨーロッパやアジアに進出してきた。 日本列島へは、陸続きだった北海道
     を通って移住を始め、日本列島全体に広がって縄文人となった。
約3万年前、中国と陸続きの琉球諸島に、デニソワ人と混血した南方系海洋民族
     が移住してきた(沖縄の港川人、白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡
     人など)
。 九州・四国の太平洋沿岸まで、列島先住の縄文人とも交わりながら
     生活圏を広げた。
BC5300年頃、 屋久島付近の喜界カルデラが大爆発し、阿蘇山も大噴火して
     九州は溶岩流や火山灰などで壊滅的な打撃を受け、九州南部の縄文先住民は
     ほぼ全滅した。

BC220頃:
秦の徐福が千人単位の老若男女と米など五穀の種を携え、山東半島
     から船出して、朝鮮沿岸経由で東方のパラダイスに移住して王となった
     との伝説(不死の霊薬を求める秦の
始皇帝の命による)が中国史書や
     日本各地に残っている。   
      この時期は戦乱を逃れて中国から海を渡って台湾や日本列島への渡来・
     移住が頻繁であったため、このような徐福伝説が生まれたのだろう。 
      実際、朝鮮半島からも日本との交易のため往来や移住する人は多かった。

BC50頃:新羅本紀(古い箇所は神話集)/古新羅に倭(朝鮮半島の南部沿岸
     の倭人だろう)が侵攻するも、古新羅王の威徳に打たれて退散した。
BC20頃:新羅本紀/馬韓に古新羅の使者瓢公が来る。瓢公は倭の出身である。

AD14頃:新羅本紀/倭人が船百艘で古新羅海岸に押し寄せ、民から略奪する。
AD20頃:
魏志倭人伝/ 公孫氏が朝鮮半島に勢力を張る。公孫氏は中国の魏
     に認められて帯方郡(現ソウル)の管理を任され、魏の朝鮮王となった。

AD40頃: 朝鮮半島南部の弁韓地域に
伽倻・加羅などの金官諸国(倭北端である
     狗邪韓国とほぼ一致)が形成されてくる。 弁韓は鉄製武器や馬の使用
     に長じるとされる。 このほか朝鮮半島では、
高句麗の他、辰韓(古新羅。
     後の新羅)や馬韓 (後の百済)も形を成してくる。
     
この頃は朝鮮南部沿岸と日本列島との往来も盛んであったと思われる。
AD57頃: 神話では、古新羅4代王は倭国より遠いタバナ国(日本列島の丹波
     地方?)で卵から生まれた。
AD57:
光武帝、公孫氏帯方郡を通さずに直接朝貢してきた倭奴国使者に
     金印を授けた。 倭奴国は公孫氏とは仲が悪かったのだろう。
     倭奴国(倭の奴国かイト国か?)の位置は不明だが、金印は江戸時代に
     志賀島から出土したことから北部九州と推定。
      梁書によると、朝貢時に倭王の使者が王は
太伯の末裔と口上した。
     
(太伯は紀元前11世紀頃の周の祖先王朝の王子で、弟に国を譲り出奔して
     揚子江下流江南に至り、句呉を建てた人物である。 姓は姫)。
      わざわざ千年も前の太伯の名前を出してその子孫と主張した倭奴国王の
     先祖は、実際に江南地方に在住していた太伯姫一族の子孫で、そこから
     日本へ渡来してきた人物であった可能性が高い。 一地方王である公孫氏
     の仲介などは無用と粋がったのだろう

AD59:新羅本紀/古新羅は倭の侵攻に困り果て、倭国(クニの一つ、倭奴国?)
    と友好条約を結ぶ。
AD73:新羅本紀/ 倭が、古新羅の木出島に侵攻してきた。

AD107:
後漢書/ 倭王の帥升(スイショウ)が、公孫氏帯方郡を通じて中国
     の魏に朝貢し、奴隷160人を献上した。  師升は、おそらく北部九州
     あたりで勢力を張り、中国に朝貢した倭王たちの一人であろう。

2世紀(AD100年頃か?);九州東岸から後の神武天皇と兄弟と中臣先祖らが、
  男だけ少人数で東に向け船出した。 この神武東征は、海幸(ウミサチ)らの
  隼人族との争いから逃れるためだったか。記紀のヤマサチが神武の祖父。
   神武は筑紫、宇佐、安芸、吉備、河内(先祖一族が既に東進し支配していた)
  などに立ち寄って勢力を増やし、約20年かけて奈良葛城山近くの橿原に侵入、
  橿原の王を追い出して小王国(橿原王国)を創成した。
   
記紀にある神武天皇は、ヤマト王権前身である橿原王国を建てた初代王であり、
  彼が葛城山付近の橿原国王になったのはAD120頃か。


AD115:新羅本紀/ 古新羅は、朝鮮半島倭国である
金官カヤを占領する。
AD121:新羅本紀/ カヤを取り戻すために倭国勢が古新羅に侵攻し、倭国と
     古新羅との間に講和が成立した。
AD120:  この頃神武が橿原国(原始ヤマト王権国)の王になる。
AD173:三国史記/倭の女王が古新羅に使者を出す。この時期卑弥呼はまだいないが、
     三国史記の誤写か。 それとも倭のクニには女王は珍しくなかったのか。
AD180頃:後漢書東夷伝/倭国ではクニグニが分かれて争う倭国大乱が起こっている
     との記録がある。 この王者不在の混乱は半世紀以上も続いたとしている。
     これは弥生集団が水田稲作適地を求めて九州から中四国、近畿、東海へ侵入し、
     先住のクニグニと争ったことを示しているのかも知れない。

AD193:新羅本紀/ 倭人が飢饉で飢えて難民となり、千人も古新羅にやってきた。
AD2??:新羅本紀/ 朝鮮倭国のカヤ国王子が古新羅の人質になる。
AD232:新羅本紀/ 倭国が古新羅の都の
金城に攻め入るが、これを撃退した。
AD233:新羅本紀/ 逆に倭国が古新羅の東部地域に攻め込む。

AD239:
魏志倭人伝邪馬台国女王の卑弥呼が、公孫氏の朝鮮帯方郡を通じて
     その宗主国の魏に
難升米(ナシメ)を遣わした。 朝貢の証として卑弥呼
     は金印と銅鏡100枚を魏王から拝領した。  邪馬台国の位置は不明だ
     が、筑後川下流域など九州中部の可能性高い。
AD248:卑弥呼が死去し、径100歩の墓が作られた (
『梁書』では正始年間
     (240年-249年)に卑弥呼死亡
とある)。 卑弥呼の墓は未発見だが、
     古墳の先駆け期なので、卑弥呼の墓とは丘の頂上に塚墓を立てただけ
     のものかも知れない。
       なお248年に、
邪馬壹國狗奴国(クマソ?)間の紛争の報告を
     受けて、倭に派遣された
魏の帯方郡塞曹掾史張政は、檄文をもって
     邪馬壹國の
壹與(卑弥呼の親族のトヨもしくはイヨ)を激励した。
      (この魏志倭人伝の文からは、張政は伊都国あたりまで来て邪馬壹國
      
に使者を遣わしたようだ)

AD250頃:邪馬台国の男王が辞任し、再び女王が立てられることになった。
     そこで卑弥呼親族の13歳
壹與が女王となったところ、
     倭のクニグニは邪馬台国に従い、混乱はようやく治まった。
AD265:晋書/邪馬台国が魏の
帯方郡を通じて中国に朝貢したが、これが最後
     の記録となり、以後倭は中国史料から150年近く途絶えた。 これはこの頃
     に邪馬台国の勢いが衰えて滅びたためだろう。 

    
この頃、橿原王国では崇神が王となり、周囲のクニグニへの支配を広げていた。
   
 すなわち橿原王国は3世紀に入って大和平野全体に支配をのばしAD250年頃には
    ヤマト王権
に成長した。 このヤマト王権の大王は崇神であり、崇神の治世は後に
    三輪王朝と称された。

    
4世紀半ばまでに、ヤマト王権の
景行天皇とその子ヤマトタケル(後の仲哀天皇の父)
    は、日本列島東国地方の
蝦夷出雲、吉備を武力で押さえ込み、九州中南部の
   
 クマソなども圧迫して全国区の王権に成長した。 
     しかし北部九州倭国勢は、AD350年にはまだ
景行天皇に服属していなかった。

4世紀半ば以後の
仲哀天皇神功皇后時代には、筑紫など北部九州倭国勢もとうとう
   ヤマト王権の支配下に入るが、九州倭国勢はヤマト王権に完全服属していた訳
   ではない。 このころヤマト王権は中九州のクマソにも勝利、これを鎮圧した。 
AD365年  ヤマト王権神功皇太后が指揮し、九州倭国軍主体による朝鮮出兵があった。
      記紀に新羅征伐の記録あり。 
AD389年、
神功皇太后死去し、息子の
応神天皇が即位。 実は応神は仲哀天皇死後十月
     経って生まれたため皇位継承が危ぶまれたが、神功女帝は九州倭国勢と武内宿禰
     の助力を得、応神天皇の異母兄たちを打倒して
応神を皇嗣とした。
      
 仲哀天皇没後の天皇不在期には、神功女帝(明治時代は第15代神功天皇
     として認知されていた)
がヤマト王権を統治していた
 歴代天皇の名で神が
     ついているのは、神武、崇神、神功、応神の4名のみ。  すなわち日本書紀が
     作られた時代には、神功は功績の著しい重要天皇の一人と認識されていた。

 
      (下記の
好太王碑文は応神帝時代の新羅・高句麗軍の戦記碑である)。
   
※ここらまでの天皇は個人名ではなく、何人かの王の業績をまとめた創作名かも?
     -----
好太王碑文(高句麗王による石碑文)------
399年、百済は先年の誓いを破り倭と和通した。そこで王は
百済を討つため平壌に出向
    いた。ちょうどそのとき
新羅からの使いが 「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭
    の臣下としたので
高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援
    することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都に沢山いた倭軍が退却した
    ので、これを追って
任那・加羅に迫った。ところが安羅軍(カヤの倭同盟軍)など
    がその逆をついて新羅の王都を占領した。 (5万の軍で攻めたのだから倭の兵
    も1万くらいは居たはず。このとき新羅を攻めたのは金官カヤや九州の兵だけで
    はなく、ヤマト王権の軍も関与していた)。
     三国史記・新羅紀/ 実聖王元年(402年)、圧迫された新羅は倭国と和議し、
    奈勿王子
未斯欣を質に出した。 新羅が劣勢の時期だった。
404年 
好太王碑文/倭が帯方郡地方(現在の黄海道地方)に侵入してきた。 そこで
    これを討って大敗させた。
    --------------------------------

AD413:
東晋の安帝のとき倭国王讃が朝貢す(この倭国とは実は
ヤマト王権のこと
    で、讃は仁徳天皇の可能性が高い。 ヤマト王権として初めて中国に朝貢した)。
AD421:宋にヤマト王権の
讃(応神の子の仁徳天皇?
が朝貢し、武帝から安東将軍
    倭国王の称号を授かる。 (『宋書』夷蛮伝より)。
AD478:宋書順帝記/ 倭の五王(ヤマト王権の讃、珍、済、興、武のことだろう)
    
武(雄略天皇)が宋に朝貢し、順帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・
    秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王
」の称号を得る。 
     ただし
百済への主権が認められなかったため雄略帝は大いに不満で、
    その後は中国に朝貢しなかった。
AD507:応神王朝仁徳系が
武烈天皇で断絶したため、大伴氏らヤマト王権家臣団に
    よって擁立された
継体天皇(5代先祖が応神帝で縁戚は薄い)は、北陸(近江、
    福井か)から上京したが、敵が多い大和には入れず大阪府枚方市で即位した。
AD513:
高句麗の侵攻により倭と親しい百済の領土が半減したために、ヤマト王権
    (
継体天皇大伴金村)は金官カヤの任那数県を百済に割譲したが、これに
    不満を抱く九州倭国の王や家臣もいた。
AD528:政権が安定して大和に遷都した継体天皇は、北部九州 親新羅派の
    
倭国王筑紫磐井君を討伐した。 この九州倭国勢力討伐以後、ヤマト王権
    が九州も支配するようになり、ここにヤマト王権は
全国区の大和朝廷
    成長した。
AD534-562:
新羅が勢いを増し、百済を圧迫して金官カヤ・任那地域を併合した。
AD587:仏教論争がもとで、物部氏が蘇我氏に滅ぼされる。
AD600:
推古天皇、聖徳太子が第1回遣隋使を派遣したが、日本書紀には記述無し。
AD607:第2回遣隋使では、
小野妹子を派遣したと日本書紀に記述がある。
AD645:
皇極天皇のとき、栄華を誇る蘇我氏を中臣鎌足らが討伐した。
AD660-668: 舒明皇后で皇極天皇となりさらに再任した
斉明女帝は、九州勢の
    助力要請に応えて百済救済のために九州遠征したが、百済・倭連合軍は
    唐・新羅軍により徹底的に打ち破られる(
白村江の海戦)。 百済に次いで
    高句麗も滅び、朝鮮全域を
新羅が支配するようになった。  滅びた百済、
    高句麗から大和朝廷を頼って日本に亡命してきた遺臣も多かった。

     九州倭国勢は以後ヤマト王権(大和朝廷)への影響力が無くなり
、天智天皇
    
の大和朝廷が九州を完全支配し、瀬戸内海沿いに防御の古代山城や水城を
    造りながら、唐とは修好を結んで朝鮮半島からは完全に手を引いた。  

AD680頃:天武天皇が稗田阿礼に命じて日本書紀の編纂開始。 AD720年に完成。


    (平安時代の「
新撰姓氏禄」では、貴族等有力家系のうち3割が先祖
     は渡来人と自己申告。 3割の内訳は、漢人163氏、百済人104氏、
     高麗人41氏、新羅人9氏、任那人9氏、不明その他117氏である。)
   




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四国の地震/100-150年毎に南海トラフ型地震

慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿い
  で発生したと推定される直下型地震。
慶長豊後地震(大分地震)- 1596年9月4日、豊後国をおそった直下型地震。M 7.0〜7.8、死者700人以上。
  中央構造線と連続している可能性もある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震- 1596年9月5日、近畿地方をおそった直下型地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。
  伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。 有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯に
  おける地震とされる。  上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。

慶長地震 - 1605年2月3日、東南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や
  遠地津波説など異論もある。 M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5
  ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る
  広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。 
会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者約3,700人。 

1611年12月 慶長三陸津波地震 三陸沖M8-9。 12月2日に南海トラフではなく三陸沖プレートを震源として
  発生した地震(M8.1-8.7の諸説あり)。 慶長地震に刺激されたか?   津波の痕跡の範囲などから
  千島・色丹(北海道太平洋)沖の震源と連動したとする説もある。  この大津波による北海道・三陸の
  死者・被害は甚大。しかし地震被害の記録はほとんど無い。

1614年11月26日の直下型慶長地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に
    至る日本各地に被害記録があり、震源は不明。
1619年 熊本・大分で地震 人吉や豊後竹田でM6。
1625年 寛永2年1月-11月に広島、道後愛媛、熊本、中四国でM5級地震続く。

1703年 プレート型元禄大地震 M8.5関東沖(南海トラフとは別)。
1707年 東南海トラフ型宝永大地震M8-9紀伊半島沖。 土佐市宇佐村の津波高10m。高松3m。
1854年 東南海トラフ型安政大地震M8-9四国室戸の東沖
   土佐市津波高8m。高松1.5m。 さぬき市で家三千軒倒壊。
1946年 昭和東南海トラフ大地震 紀伊半島沖。  土佐市津波高6m。高松1m。
           ※土佐市で10m以上の津波だと高松も危険ということ!!

2011年 プレート型東北大震災M9(南海トラフとは別)  この地震の日本列島地盤ゆがみ調整で
 2014年長野県地震、
 2016年熊本・大分の中央構造帯地震や鳥取直下型地震が発生。 
 今後、富士山や阿蘇山噴火の可能性もなくはない。

2035年頃 東南海トラフ大地震の可能性あり。   震源は高知沖か? 日向灘は?